【エッセイ第21回】

チャボさん

「次は何処へ・・・」

私の名は、チャボ!名のとおり、じっとしていられない生き物。いつも忙しく動き回っている。

妻でもなく、母でもなく、もちろんまだこの業界にご縁もなかった頃、そう、今から20年前、私は銀行で働いていた。銀行のシャッターが開いている間、店内を忙しく動いている私を見て、先輩が一言

お前、チャボみたいや

この業界に入る前から、いや、学生時代からすでに3つも4つも、同時処理を抱え動き回っていた私。これはもう性分、としかいいようがない…。

さて、私たち家族が尾張の国から、越後の国にやってきて、3年の月日が過ぎようとしている。その前はお江戸に居た。

三重にある実家で出産しても良かったのだが、「子育ては、やっぱり夫婦でしょ。」助産婦さんの一言で、東京で産むことになった。

結婚する前から、こどもは絶対、男の子がいいと思っていたし、もし息子がタレントになったとき、東京都出身なんてカッコイイじゃん!フリルの付いたエプロン姿で、幼稚園バスに乗せた息子を見送る…な〜んて、浅はかな夢を見ていた。

夢がかなって、男の子を授かった。手のかからない、いい子だった。生後8ヶ月を過ぎても、人見知りもなく、誰に抱かれても平気だった。

息子が1歳近くになる頃には、私は外が恋しくなり、仕事に出るようになった。

何でやねん!幼稚園バスはどうなったんや?

ブツブツ言いながらおしめバッグを抱えて、毎朝保育園へ息子を運ぶのはパパの仕事となった。

息子は3月31日生まれで、4月生まれの子とはほぼ丸1年の差があるものだから、発達の遅れは気にしていなかった。ただ、何となく変わっているな〜と感じていたのは、やけにCMが好きだったこと。幼児番組より、よく反応していた。それと、保育園へ迎えにいくと、寝っころがって、ミニカーのタイヤばかり見つめていた。そんな様子から、かすかな気づきはあったのだけど…

それから、名古屋に来て半年後(息子2才5ヶ月)、児相の診察室で「自閉的傾向」と診断名を聞いた。

やっぱりそうだったのか。妙に納得する。この業界に一歩足を踏み入れた瞬間である。

告知をきっかけに、児童福祉センターにて「ことばの遅い子どもたちのグループ」に通った。3才になると、週1回で本格的な自閉グループの療育が始まった。

親の会には小学校入学と同時に入った。先輩のお母さんから一枚の紙をもらい、てっきり『自閉症親の会』だと思って入会したら「知的障害児の親の会」であった。

その知的障害児の親の会で、初めてのクリスマス会に参加した時は、唖然とした。手違いで、BGMが、まったくなかったのである。

私は、銀行OL時代に市民劇団に所属していて、観客を楽しませることばかり考えていた。イベント魂の原点はここにあった。もっと、子どもも大人も、楽しまなくっちゃ!2年目には、そこでクリスマス会を仕切っていた私。

名古屋で居心地がよかったのは、4年通った保育園を土台として、家から徒歩5分の情緒障害特殊学級に入学できたことだ。多動がおさまらない息子は、何度も学校の外に飛び出し肩身が狭かったが、なぜか子どもたちからは人気があった。息子が1年生の時、上級生の5年生のクラスで、息子の歌やファンクラブもできたらしい。「グッズを売って儲けますか。お母さん!」担任が、ニヤリと笑った。

学童保育に入れたこともラッキーだった。自閉症の子どもに学童は合わないよ、と言われたこともあったが、息子は学童のヤンチャたちと生活し、心身ともにたくましくなった。親はここで、アウトドアの真髄を学び、健常児の親たちと友情を深めた。みんなが息子のことを知っていた。障害もまるごと受け止めてもらえた。息子が何か問題行動を起こすと、夜遅くまで話し合った仲間。保育士やコロニーの職員、授産施設の職員、幼児障害児保育を研究している大学の先生まで、学童の親達である。これだけ福祉関係の職業を持つ親がいる学童もめずらしい。

でも、せっかくこの土地で基盤を築いても、「おい!転勤や」の一言で、一気に崩れてしまう

「新潟に転勤ですか。」そう言って、児相のスタッフが全国の児相の住所一覧をパラパラとめくっている。「おかしいなー、新潟市内に中央児童相談所がないんですよ!」「中蒲原郡ってなってますけど、いったいどこにあるんでしようね。」

私にも、さっぱりわからなかった。

「そう言えば、『自閉症児の引っ越しQ&A』があったから差し上げましょう。」と、引っ越しマニュアルももらった。尾張の児相には、最後の最後までお世話になった。

また新しい土地で、ゼロからのスタート。

友人や仲間は、できるのだろうか。新潟ってどんなところなの?

名古屋の友人たちは誰一人として、心配してくれなかった。「おみゃあさんなら、全国どこへ行っても、やってけるがね。」「転んでもさぁ、タダで起きない人だもん。」「転んだ先の雑草を握りしめ、その草を情報源にして生きていく人だがね」と、口々に勝手なことを言う。

息子9才の秋、いよいよ名古屋を旅立つ日がやってきた。引っ越しマニュアルには

おばあちゃんに預けないで、引っ越しを見せよう

と、あった。

息子は、というと引っ越しのトラックの中に入り込んだりして、邪魔ばかりしていた。名古屋駅の新幹線ホームには、4年間ペアだったボランティアのお姉さんが駈けつけてくれて、ポーカーフェイスの息子に、ちぎれんばかりに手を振ってくれた。電車好きの息子にとって、楽しい旅だったにちがいない。

新潟に着くと、どんよりとした空。何か気持ちまで暗くなった。きっと、春に新潟に来ればよかったのかもしれない。

新潟へ行ったら今度こそは、「自閉症親の会」に入ろうと思っていた。名古屋では講演会の時だけ、非会員で参加させてもらっていたが、忙しくて目の前にいる我が子に何もしてやれなくて、もどかしかった。この機会にもう一度、自閉症の息子のための療育をしたかった。

新潟にやって来て間もなくのこと。とある会場でウーピー隊長に声をかけられた。これはもう運命としかいいようがない。次の定例会を告げられて、私はその定例会に

居た。

これがほっぷ・すてっぷの仲間とのはじまり。

あれから3年。今は、黄門様に仕えるお銀のように、隊長の右腕になれるよう、日々鍛えられている。アウトドアに俄然強いワタラーの母さんとは二人三脚だ。ここでの修行が、次の引越し先でもきっと役に立つに違いない。

人生の途中下車駅新潟。次の列車が発車するまで、もう少しここで、暴れよう。



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