【エッセイ第33回】

ウーピーさん

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新年、明けましておめでとうございます。本年も新潟市自閉症親の会をよろしくお願い申し上げます。※月刊がむしゃら(2003年11月号)に掲載されました文章を年頭エッセイとして、ご紹介させていただきます。

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「受 容」

「『自閉症』で何が困るんですか?」かかりつけの小児科の医師が「はまぐみ」への紹介状を書くその傍らで、呑気な質問をしていたのが、今からすでに十四年も前のことになります。乳幼児の健診の一つに一歳半健康診断があります。その健診の際、言葉がまったくないことで息子の成長に不安が持たれていることを知り、どうやら『自閉症』と言われるものの状態に当てはまることだけがわかり、「治してもらおう」とかかりつけの小児科医へ行った、すべてはあの日からはじまったのでした。

どんな困難であっても悲しみであっても、大概の物事は「時間」が解決するものです。しかし今、目の前に居る幼いわが子に与えられてしまったものは、私の持ち得る時間のすべてを注ぎ込んだとしても、取り去ることはできないのです。人が人として生まれ、生きていくうえで最も重要な部分にその障害があることを知るにつれ、全身は総毛立ち、思考停止状態。底無しの大きな穴に吸い込まれていくような、もうどこからも這い上がれないような、そんな感覚が数日続きました。それくらい、息子に与えられてしまった「障害」に打ちのめされていたわけですが、だからといって、息子と死のう、と思いつめることはありませんでした。考えないわけではないのですが、どうしたらこんなに可愛い子を手にかけられるでしょう。ただ、何が辛かったか、といえば、泣きたいのに涙が出ないことでした。涙を流せる余裕が無いのです。「泣ける」ということが幸せなことなんだと、初めて知りました。泣いている暇があったら、息子を何とかしてあげたい。どうしたら少しでも今より良い状態へ持っていけるのか、その手立てを知りたい。教えて欲しい。誰に聞いたらいいのか、どう関わればいいのか、こういうタイプの子どもたちを育ててきた人の話はどこへ行ったら聞けるのか。私はとても焦っていたことを覚えています。

こどもに障害があることを告知された親が必ず辿るという『心の変化』は、驚き(!)→拒否(何かの間違いだ)→諦め(どうせ何をしても無駄だ)→再生(何とかやっていこう)があるそうです。そしてほとんどの親が、拒否と諦めの間を行ったり来たりして、その部分で時間を費やすそうです。『障害』を持っていることを「信じたくない」「きっと治る、治して見せる」「やっぱりダメか・・・」「一生治らない」そんな心の戦いを何回も何回も繰り返して障害そのものを受容するまでに時間がかかるのだということです。例えば見て分かる形而上の障害=ここがない、あそこがおかしい=であったとしても、親というものはこどもの成長、発達を望み、そのために血まなこになるものだと思います。ましてや、私たちのこどもは、見てわからない、血液を採っても、レントゲンを撮っても科学的には証明されない。行動上の観察でしかわからない障害だから、親がその障害を「認めない」と言えば、ずっと、認めないで通せるような部分もあります。認めるまでにとても長い時間がかかる方もいらっしゃるでしょう。

私の場合はどうであったのでしょうか。衝撃的な障害の発見の後は、かなり早い時点で、一生付き合っていく障害であること(治ることがないこと)を理解しているつもりでした。そう、頭だけで、です。早期に専門機関を受診できたというメリットがありましたので、早期療育を開始できるケースでした。そして、私の中では、充分に息子を受け止めているかのような錯覚、自惚れがありました。それがどんなに大それた思い上がりであったのかが、「母子入所」で思い知ることになります。

はまぐみ小児療育センターでは「母子入所」という制度があります。日常の雑多な役割から母親を解放し、障害のある子どもと二人っきりで向き合う時間を母親に与えることによって、今後の人生を強く生きられるようにと、心の準備体操の期間(三ヶ月間)を設けているのではないか、と私は解釈しています。しかし、当時の私がそのことを理解していたわけではありません。

ST(言語聴覚士)の勧めに従って、息子が二歳三ヶ月のとき母子入所をしたのでした。母親との「愛着関係」をゆるぎないものとするため、と「言葉の表出、獲得」などが大きな目標とされていました。

入所第一日目から、もう、どうにも歩き回るのが止まらないのです。夜は眠らない。ご飯は食べてくれない。一気に環境が変化してしまったので、息子は家に居たときとは別人になってしまったかのように歩き回り、私がここにいることすら、見えていないようでした。ただ、ただ、ひたすらに息子の後を歩き続ける日々が始まりました。夜の消灯の八時を過ぎてからが地獄です。同室の方たちの迷惑になってはいけないので、夜な夜な病院の廊下を徘徊します。おぶったり、ダッコしたり、下ろしたり、そんなことを朝の新聞配達のバイクの音が聞こえてくる時間まで繰り返していました。毎日の睡眠時間が二時間も取れないような生活が続きました。苦しくて、逃れたくて、自問自答を繰り返すのです。

「私は好きでこの子を自閉症に産んだわけでない。なのに、皆が母子関係、母子関係と口々に言う。」「まるで私がこの子を愛していないから自閉症にさせてしまったみたいに聞こえる」「これは不可抗力よ、どうしてそんなに私を責めるの?」「私は前世で何をしてしまったの」「一体いつまで、この十字架を背負っていたらいいの」

など、ありとあらゆる事を考え考え、フラフラと廊下を徘徊していました。

ころが、二ヶ月目も終わろうとする頃、ある日、ある晩、いつもの徘徊の廊下で、フッと肩の力の抜ける瞬間がきました。答はとても簡単なところにありました。私はただ、私自身を許してあげればよかったのです。自分を許し、こどもを許す。その瞬間のことを「受容」と言うなら、そのような気がします。

あれだけ独楽ねずみのように歩き回っていた息子が、この後から二日間熱を出し、その日を境に、私にベッタリと体を預けるように変化したことが忘れられません。もちろん、その後、残りの母子入所期間は夢のように楽しく過ぎていきました。「自閉症」という障害に出会い、その障害をありのままに受け入れられるようになるまで、どの親も苦しみます。まるで出口のないトンネルに迷い込んでしまったかのように。けれど、やがて気づくのですよね。今まで自分の知っていた世界は単一の価値基準でしかなかったこととか、発達障害のあるこどもたちの素晴らしい部分とか。豊かな個性など。すると意外なところにトンネルの出口が見つかったりします。

息子は現在中学三年生になりました。いつでも私を支えてくれる穏やかな命です。その尊い命のおかげで私は生かされ、たくさんの、けれどちょっと風変わりな幸せをもらっています。

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月刊がむしゃら新潟大学の学生さんたちが取材・編集・発行まですべて行っている雑誌です。1冊200円。紀伊国屋シネ・ウインド、大学生協、文信堂等、新潟市内の書店で発売中。2003年11月号は、「広汎性発達障害について」の特集が組まれ、長澤正樹先生の対談(特集)も掲載されています。



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