【エッセイ第53回】

オリーブさん

「able」

私はオリーブ。久しぶり、2度目の登場。

able(エイブル)という映画を御覧になっただろうか。ダウン症のゲンと自閉症のジュン。知的障害のあるふたりの青年が、遠くアメリカへホームステイをするドキュメンタリー映画である。一度逃したチャンスが再び巡って来て、ようやく観ることができた。

スクリーンの中、ゲンとジュンは実に魅力的に映し出されていた。彼らのひたむきさ、純粋さ、素直さに、多くの方が心を惹かれたことだろう。彼らの世界を知りたい。彼らに会いたい。友だちになりたい。そういう感想を素直に抱かせる映画だった。ホストファミリーのキャサリンは、ボランティア関係の仕事をしているが、実際に障害者に接した経験はないという人だった。えっ、大丈夫?と思ったが、彼らを迎え入れた日の夕方、帰ってきたハズバンドにこう説明していた。

「ジュンは言葉に頼ろうとしない。周りの状況を観て判断してるから、それ程混乱はしてないみたい。でも、ゲンは言葉を理解しようとするの。だから私たちの英語にとても戸惑ってるわ。」

わずか数時間一緒にいただけで、彼らの障害の特性を的確に言い当てていた。余計な先入観は無い方がいいのかもしれない。彼らの気持ちを読み取るセンス。ありのまま受け入れようとする心の深さ。一生懸命さ。彼女もまたこの映画の中でとても魅力的な人だった。

そしてアメリカの福祉の豊かさも、ただただ羨ましい限りだった。ジュンが、通学することになった地元のハイスクールは一般の学校の中に“スペシャルクラス”という障害児の為の学級が併設されていた。通常学級の学生たちは、ボランティアとしてスペシャルクラスに入り、授業の手伝いをしていた。健常児と障害児がそんなふうに交流している環境がとても羨ましかった。ジュンも自然にその中に溶け込み、クラスの中の自分の役割を見つけていた。別れの日、最後のスクールバスをいつまでもいつまでも見送っていたジュンの姿が印象的だった。

教育だけに限らず、乗馬セラピー、イルカセラピー、スポーツ指導。障害者が余暇を楽しめる環境が当たり前のように身近に用意されていた。日本は経済大国としてアメリカを脅かす程に成長してきたが、福祉の分野ではアメリカに100年は遅れていると思った。(ちょっとオーバー?)経済的豊かさより心の豊かさに価値観を持てるようにするには、子どもの頃からボランティアの体験をさせていくこと。そんな積み重ねが、とても大きな意味を持つのではないかと勝手に思っている。

キャサリンが最後に言った。「彼らは、たくさんのことを教えてくれた。私たちが良い人間になれるように助けてくれたわ。」

言葉を殆ど持たない自閉症のジュン。映画の中で彼は終始穏やかだった。実際の記録フィルムは100時間に及んだという。その中にはきっと修羅場的映像もあったのだろう。1時間45分の編集では総べてを語り尽くせないかもしれない。が、ジュンを見ていて思ったのは、大事なのは言葉の多さではないということ。自分の身の回りのことがちゃんとできるとか、仕事を真面目にこなすとか、周りの状況に合わせる力とか、コミュニケーション意欲とか、彼はそういう力を十分備えていた。

障害のある子どもを育てていく上で何が大切なのか、この映画を観て親として改めて考えさせられた。そして

「できないのではない。できないと思って、できなくさせている。」

この言葉が胸に響いた。

映画の終盤、キャサリンが「明日帰るわよ。」と電話をするシーンがあった。相手はゲンの母親のようだ。電話の向こうでとても流暢に英語をしゃべっていた。続いて、ジュンの家にも電話をかける。彼の兄との会話もまたガイジン同士がしゃべっているようだった。キャサリンはゲンの母親のことを最愛の友と言っていた。

そうなのだ。遠い見知らぬ国の見知らぬ家庭に知的障害のある青年がホームステイするのである。何が起こるか分らない。キャサリンがダイレクトに電話をしてすぐ相談できるよう、語学堪能が必須条件だったはずである。事前に息子たちのことを説明する必要もあっただろう。通訳を介して、なんてまどろっこしいことはしてられない……外国にホームステイ…。そんな、とてつもなく素晴らしい経験を息子にさせたいと思ったら、まず親が、N●V●に駅前留学か? Oh my GOD…

〜お断り〜
1年近く前に観た映画です。細かい内容については、間違った記憶としてインプットされている可能性も多分にあります。ご了承ください。

**おまけ**
一回目のエッセイで、電車の座席にどうしても座りたくて、おねえさんの太腿をクッションにしてしまった息子は、今では、「混んでたら、立ってなきゃダメなんだよ。」と私に確認してバスを待つようになりました。



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