【エッセイ第56回】

夜更かしウサギさん

「伝えたいこと」

夜更かしウサギです。ピョンピョン飛びはねる息子を「ウサギさんみたい♪」と単純にかわいく思っていた頃、連日の夜更かしで目が充血していた私。「これじゃあ、母の私も目の赤いウサギかな?」な〜んて思ったことから付けたハンドルです。家族は夫・私・息子(3歳)・娘(1歳)。隣には両親が住んでいます。

1年前・・・当時の私は息子の成長について何も心配していませんでした。1歳6ヶ月健診では、辛うじて『あち(熱い)』『たいたい(痛い)』『いや』を使っていた息子。いつの間にか『いや』しか使わなくなってしまったけれど、言葉が遅いのはテレビやビデオを長時間見せているからだと信じて疑いませんでした。家事もせずに、息子の要求に応じて延々歌い続けるわけにはいかないし、部屋は散乱しているから少しでも片付けたい。言葉が遅れる悪影響があると知りつつも、家事を少しでもこなす為にはテレビが必要って割り切っていました。

私が台所に立てばタックルで邪魔をして危険極まりない。洗濯しようと部屋から移動すれば泣き叫び、のけ反って抵抗する息子。家の中を自由に動けなくて常にイライラする私。それでも「子育てが大変なのは当然、子どもなんてそんなものだ」と、思っていました。常に何か要求されていたからか、視線が合わないなんて感じた事はなく、指さしをしないことを健診では指摘されず、「健診で問題ないとされたのだから大丈夫」と、認識していました。そう思っていたのは私だけだったのですが・・・。ただ、こどもが何を訴えているのか分からないことで、大汗をかく毎日ではありました。

夕食時、息子は夫の膝の上に座り大好物の白い御飯を貰ってゴックン。夫は息子に物足りなさを感じていたようです。私が誘っても息子は一緒に遊ぶことはありませんでした。家族の心配もありWeb上で多動をキーワードに検索してみたことはありましたが、自閉症には辿り着かなかった。ADHDとは似ている部分もあるけれど噛み合わない。「やはり心配いらない」と、余計に自信を深めた困り者の私。妊娠3ヶ月目から胎動が激しかったので、これは息子の個性なのだ、と。少しは単語を喋っていたのだから、言葉も心配することはない、と。私は自信タップリでした。

フルタイム勤務をしていた私に代わって息子の面倒をみていたのはおばあちゃん。おばあちゃんの心配を解決するつもりで訪れた育児相談。言葉が遅いことと延々と飛び跳ねたり回ったりすることについておばあちゃんが訴えても、その時に担当してくれた若い保健師さんは、「とても楽しそう」「一緒に飛び跳ねてはどうですか?」と。それは無理だよ・・・。すくすく健診(※注1)を紹介されたのは奇跡に近かったのかな?

すくすく健診では、単語が出ているのに、「言葉が遅い」と心配して集まっている他の親御さんたちを見て「え?こんなレベルでも心配しているの?」と、カルチャーショック!!もう少し早く育児相談へ行ってもよかったかな?と、チョットだけ思いました。第二子出産を間近に控えていた私に、担当してくれた保健師さん曰く「出産してからすくすく健診に通うのは難しいし、私が○○くんの担当になりますね。」今では、とても感謝しています。

この時期、自宅で息子との過ごし方に行き詰まっていたおばあちゃんは子育て支援センターを知り、ほぼ毎日通い詰めていました。ここでも感謝しきれない程の支援と多くの出会いに恵まれました。おばあちゃんは、周りの子どもと比べ落ち込む毎日。それでも、心配事を全面的に受けとめてくれるスタッフへ揺るぎない信頼を寄せていきました。

事態はさらに急展開することになります。『自閉症』を取り上げたテレビ番組に涙を流していたおばあちゃんは、「この子は病気だ。」が口癖となり、第二子(娘)の出産前夜にWeb上で『自閉症』を知った夫は、生きる気力を失いました。私が娘を連れて産婦人科から帰宅したときには、まるで通夜か葬式のようにどんよりした空気。生まれたばかりの娘を育てるために、私は、何も考えない事で乗り切るしかなく、意識が途切れるまで家事に励みました。

息子は、急な環境の変化が引き金となったのか、「一体どんな虐待をしているのか?」と、思わせるような、周囲4〜500メートルに響き渡る声で叫び泣き始めるようになり、生活は一変しました。「近所迷惑だ!」と、何とか泣き止ませようと試みる家族。私が家族の心配を和らげようと努力してきたことは「話を聴かない人に何も言うことはない。」「もっと早くに気付かなければいけなかったのに取り返しのつかない事になった。何も言わずに黙っていろ。」と、家族間に深く大きな溝をつくる結果を招きました。張り詰める空気のなか、息子の障害を受容出来ない家族が「跳ぶな!」「回るな!」と悲痛に叫ぶ毎日。家の中を動き回れないどころか、手足を動かすなど些細な事でパニックとなる極限の生活でした。はまぐみ小児療育センターに初めて足を運んだとき、「何が一番大変なのか」問われて答える事ができませんでした。診察は進まず「言葉の遅れは個人差の範疇を超えています。」と、宿題に発達テストを渡されました。このテストで、言葉以外の発達の遅れに気付かされました。「何かが違う」と、覚悟した瞬間でした。まるで記憶喪失のように、それまでの生活を思い出すことすら困難でした。「そういえば、息子を着替えさせる時は歌で誘導していたっけ?」など、記憶のかけらを見つけては試しました。淡い期待は打ち砕かれ、息子は裸のまま外へ逃げ出す。そんな繰り返しの毎日。息子の最後の言葉「いや」も消失しました。

暗く長いトンネルに迷い込みながらも、子育て支援センターにいる間にホッと息抜き。子育ての不安を和らげてくれる貴重な場所でした。家族が気付く前から息子の障害を察していたスタッフに見守られながら、家族の状況を話したり、息子との遊びを模索したり。娘を背負いながら息子を追いかけるだけの毎日でしたが、息子は、他の子に紛れて模倣遊びをするなど嬉しい変化も見られました。親しいママ友達もできました。

こども相談センターを初めて訪れた日、最初は大暴れしていた息子。ところが、指導員さんの誘導で一緒に楽しそうに遊び始めました。そのときは単純に喜んでいた私ですが、後に“専門家だから出来たのだ”と気付かされました。そして私は、トンネルの出口を探して親の会へ。日常生活の制約が多すぎて集会の参加は困難だったけれど、会長より救いの言葉を授かりました。試しに通い始めたH園(※注2)の土曜療育。短期間だったけれど通い詰めたはまぐみ小児療育センターでの遊び、こども相談センター、子育て支援センター、土日も開放している児童館。様々な支援を得てきました。

息子のチョットした成長は、家族の対応に変化を生じさせ、春を迎えるころ、我が家にも明るい光が差し込み始めました。まるで暗号を解読するようでしたが、息子の歌や言葉も徐々に聞き取れるようになりました。

4月から本格的に通い始めたH園。家族全員「過度な期待をせずに見守っていこう。」と決めたとたん、三輪車やブランコに乗るなど劇的な変化を続けた息子。積極的に話しかけてくるし、嫌な音には耳塞ぎが出来るようになりました。それまで触れることさえ嫌がっていたオモチャのラッパを吹いたことには驚きました。いつかブクブクうがいも出来るようになるかな?今はまだ「いつ障害に気付いたの?」と聞かれても、答えを探すのに四苦八苦。どんな障害なのか理解して欲しいという気持ちが先走りして言葉にならない。障害があると伝えても「まだ小さいから大丈夫。」「大変だね。」と言われてしまう。大丈夫だったら普通の幼稚園に問題なく通園できるよ。安易に大丈夫なんて言わないでね。励まされているというよりも理解してもらえないと感じてしまう。悲しい顔されても困るんだなぁ。話が次に進められなくなってしまう。「うん、うん。」と共感してもらえれば充分なのに。どう言えば伝わるかな?息子の障害くらいは上手く伝えられるようになりたいけれど、私の口下手は折り紙つきなのです。人と目を合わせるのもニガテ。こだわりも強い。情報の洪水に思考がフリーズしてしまう。社会に疎外感。程度に大差はあるけれど、息子に共感できる部分はたくさんあります。でも息子のような感覚過敏は持ち合わせてないから全部を理解できるわけじゃない。私の課題も山積みです。

いろいろ書き綴りましたが、スクスク成長している息子と娘にイライラしたり癒されたりしながら毎日過ごしています。障害に対する家族の受け止め方はバラバラ。意見が噛み合わないことも多々あるけれど、それなりに受容できたかな??子どもと一緒に家族も成長していきますので、どうか温かく見守ってください。よろしく!

(※注1)新潟市で、乳幼児健診時、心配のあるお子さんに紹介されるもの

(※注2)知的障害児通園施設



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