【エッセイ第69回】

noritamaさん

「風の島」

ハンドルは「noritama」。誰もが知っているふりかけの名前でもある。

我が家の子どもたちはご飯が大好き。アツアツの白い炊き立てにふりかけをかけてあげると、それはもうモグモグと美味しそうに食べてくれる。

でも毎食それだけしか食べない時もあり、また、同じ銘柄のふりかけしか食べない時期もあった。

「食べることは生きていく上での原点です」などと言われると、母親としては“少しでもいろいろなものを食べさせなくては”と料理の工夫にも四苦八苦する日々。

「偏食」は自閉っ子の親たちにとっては永遠の悩みかもしれない。

それでも最近食べられるものの数が、少しづつだけれども増えてきたような気もする。

しかしながら自閉っ子たちの子育てはそれだけでは終わらない。

「食わず嫌い」は食べ物だけではないからだ。社会性、身辺自立、そして言語という難題を毎日のように意識しつつ、親としては気が抜けない日々。

また「早期療育」の言葉に知らず知らずと焦ってしまう。(今出来ること、やらなくてはいけないことを逃してはいけない!)などと必死になっている、親としての私が存在する。

最終的には気持ちばかりが先に立っているようで、なかなか思うように出来ていないのが現実ではあるが。

そんなある日、誰も居ない居間のソファに体をうずめながら、「はぁ…」とため息ひとつ。(最近のんびりしていないなぁ、気持ち良いことしていないなぁ…)

こんな風にひどく疲れたような日は決まって、何故か、昔訪れた「南の島」を思い出す。

白い砂浜、青い空。そしてどこまでも静かに広がっていく、きらきらと輝く透明な海。風の音と波の音が美しいほどに調和し、メロディを奏でるように体の中をスーッと吹き抜けていく…。

今すぐまたあの海辺に佇んでいたい…。笑いあう子どもたちが水と戯れ、貝殻を拾いそっと耳にあてる。そんな光景をずっと眺めながら、日がとっぷりと暮れる夕方まで時間を忘れる日々。

風と波打つ音だけの世界のなかで、静かな時を再び過ごしてみたい。そして家族みんなと一緒に、ずっとずっとそんな暮らしを続けていたい。自然な世界で、自然な形で。すべての自然に身を任せて…。

そんな夢のような、幻想とも言える世界。今すぐにはとても実現できないであろうことを、時々一人想像しては、また、ため息ひとつ。

今、私たちがいる社会。(それが現実)『自閉症』と診断された子どもたちにとって、「生き易い」とは言い難い社会。

座っていられない。人の話が聞けない。友だちが出来ない。ルールが守れない。そして会話が出来ない。

これから先に必ず起こり得る苦悩の日々。子どもたちの集団生活におけるさまざまな困難。社会から指摘されるであろう子どもたちの不適応や、目には見えない圧力が少しでも和らぐようにと、小さいうちからの療育の必要さをひしひしと感じているからこそ、私は今こうして頑張るしかないのだ。自閉症児の親として。

ふと我に返って、自分自身にそう言い聞かせる。

『見えない障害』を抱えるわが子たちを、今まわりにある私たちの社会の中で何とか生きていけるようにするために、私は必死な思いで日々療育している。

しかし、ここが南の島だとしたならば、たとえ学校があるとしても、それが椰子の木の下にあるような学校だとしたならば、今日の食べ物をみんなで探し、明日の幸せに繋げるようなことだけを追い、とりあえずは生きることが大事な生活だとしたならば、

私が今子どもたちにしている「療育」と称することは、絶対に必要なものなのだろうか。

そもそも「療育」とはいったい何なのだろう、と思うこともある。

これがたとえ私自身の現実逃避からくるものだとしても、「人間としての生きていく姿」を原点から追い求めることを思うと、

「笑顔を一番に大事にしたい」「元気に毎日が過ごせるだけでいい」という親としての素直な子どもへの願い。それだけでいいではないか。

これ以上この子たちにいったい何を望むというのだろう。このままでいいのではないだろうか。我が子の幸せとはいったい何なのだろう。

こんな思いに悩まされる日が何度も訪れるのもまた事実だ。

その質問は時として毎日のように繰り返され、親としての自分の気持ちがゆらゆらと揺れてしまう瞬間でもある。

しかし、「やはりこのままではいけないのだ」と私は独り言のように再び自分自身に言い聞かせながら、今日も「療育」を意識した子育てを続けているような気がする。

就学や将来のことを考えながら、「今出来ること」を親として懸命に探しながら。

(ここは夢の南の島ではないから…)

でもいつかこの夢が叶うことをあきらめてはいない。南の島でなくてもいい。子どもたちと静かに暮らせる空間を必ずどこかに見つけて、笑いながら生きていける時間をずっと大切に過ごしていたい。そして、社会全体が「障害」という言葉で人間を区分けするのではなく、すべてが「個性」と思える人間たちの集団であって欲しい。

そんなことをいつも心のどこかで静かに願い続けている。



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